目まぐるしく騒がしい、時間の切れ目のない社会へ進出すれば、
過去に勉強したことなど、脳裏の片隅に追いやられ、記憶と言う確かな記憶は そこにはなく、
ただ溺れげな記憶の断片だけがそこには、ただある。
イギリスの国土(領土)の島の形
我々の記憶の中にあるイギリスの形とは、日本を中心として世界地図を見たときに、
左上の片隅にある小さな島国のイメージがある。
しかし、本当のイギリス(イギリス連邦)の国土の大きさを知れば、「驚嘆」という言葉が、頭の中枢にドッカリと落ちてくるような衝動が駆られる。
現在のイギリスはイングランド王国を中心とした「全地球上の53の国」と「4つ王国」から形成される国家である。
イギリスの地図「アイルランド・スコットランド・マンチェスター:写真・画像付(Googleマップ引用)」
イギリス連邦=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の由来
イギリスが「イギリス連邦」と言う名前が付くのには、理由がある。
そもそも、連邦とは?
過去に植民地であった発展途上国や、それに追従して貧困・飢餓が多い国では、法制度や政治的な問題が解決の糸口を見い出せず、内部紛争の火種となる要素が山積している。
このような場合、政治や法制度を、すでに発展している国に委ねることで、法律と政治的な問題は内部紛争を回避できる。
しかし、自分の国の財政(金銭の収支の管理)の問題は自分の国で賄う。
このようにすることで、自治権は自国にあるので、自国の国の名前も堂々と地図に書けることができ、政治や法整備などは、他の大国に委ねることで紛争なく、スムーズに国の運営が行える。
国の長となる人物について
国の長となる人物については、その国の人物が行うこともあれば、「総督」と言う形で大国の本土から直接派遣された人物が行うケースがある。
総督がその国に置かれる場合、その国の頂点に君臨する人物は、現在のイギリス連邦を例とする場合、君主である「エリザベス女王」と言うことになる。
このような国と国の在り方を「連邦制」と呼ぶ。
仮にイギリスを例として、自国の一部の運営と管理をイギリスに委譲した場合、イギリスに運営と管理の一部を委ねた国々と、その中心国家となるをイギリスを総称して「イギリス連邦」と呼称する。
現在、イギリス連邦には「地球上の53ヶ国」もの国々が参加し、大ざっぱ言えばイギリスの領地でもあり、超大国・イギリスとも言える。
そのうち、16か国は、イギリスが派遣した総督(総督府)が置かれ、事実上はエリザベス女王が16カ国の頂点に君臨しているのことから、もはや、イギリス王国の一部と言い換えることができる。
これらの国々は過去、1500年~1700年頃までののイギリス帝国(大英帝国)の侵略戦争により、イギリス帝国が勝利して得た世界中の国々(植民地)が主となって現在、イギリス連邦に加盟国として参加している。
連邦制のメリット
連邦制にすることで、その国土の文化や風習を活かした政策が実現できる。
根幹を成す法律は大国に委任し、それに付随して自国の法律を肉付けする。
このようにすれば、見かけは様々な国が寄り集まった「一つの連合国家」であり「超大国」と呼べる存在になることができる。
また国の運営管理は、その国々に応じた小回りの利く政策が執れるので、内部紛争を極力抑えることができるので連邦制にするメリットは高いと言える。
では、イギリス連邦の「グレートブリテン」とは?
グレートの「ブリテン」とは、現在イギリス本国がある島の名前のことである。
「ブリテン島」を大きい(大英)と読み「グレートブリテン」と称する。
グレートブリテンの大きさ
グレートブリテン島の大きさを、わかりやすく例えで示すと・・
- 日本列島・・おおよそ37万平方キロメートル
- 朝鮮半島・・おおよそ22万平方キロメートル
となり、朝鮮半島とほぼ同尺として捉えることができる。
では、グレートブリテン王国とは?
グレートブリテン王国とは、過去に存在したイングランド王国とスコットランド王国が一人の国王(=君主)の下、合併して新しく作られた国家の名称である。
尚、スコットランド王家としての最後の国王は「ジェームズ6世」となる。
グレートブリテン王国が建国された由来と歴史
1603年3月に当時のイングランド女王・エリザベス1世女王が不治の病気にかかる。
この時、エリザベス1世女王の承諾が得られないまま、当時のエリザベス1世女王の秘書大臣が、急遽、スコットランド王家のジェームズ6世にイングランド王家の王位継承権を与える公文書を発行する。(陰謀説とも言われる)
その後すぐ、エリザベス女王は崩御し、変わりにジェームズ6世がイングランド王位を継承するに至る。
継承する際、ジェームズ6世は「ジェームズ1世」と名前を改め「イングランド王・ジェームズ1世」としてイングランド王位に君臨することになる。
さらに時は流れ、この後、王位を継いだ「アン女王陛下」のもと、紛争が絶えることがなかったイングランド王家とスコットランド王家がそれぞれの国の議会(イングランド議会・スコットランド議会)で「和平」をモットーとし話し合いを重ね、ついに両国の合併が成った。
このとき国名も、両国議会で定め「グレートブリテン王国」と定めた。
現在も、この両国の議会は健在しており、エリザベス2世女王陛下の下、「イギリス国会」として機能している。
議会の名前も「グレートブリテン議会」として名前を改めている。
北アイルランド連合王国とは?
ローマ教皇の庇護の下、大英帝国の植民地であったアイルランドは、国王や君主と呼ばれる存在がそれまでなかった。
しかし1154年、ローマ教皇から「アイルランド卿」としての地位を公式に授与された、イングランド王・ヘンリー2世が、初めて「アイルランド王」を称したことがアイルランド王国の始まりである。
その後のアイルランド王国では、イギリス(大英帝国)の植民地時代になると、統治がうまく行き届かず、飢える者が増加し、やがて自治権(独立)を求める派閥が誕生する火種が生まれることとなった。
それからしばらく後も、イギリス(大英帝国)の統治は悪政が続き、国民は貧困・飢餓で苦しみ、命を落とす者も少なくなかった。
そしてついに、アイルランドの自治権を求める派閥勢力が、当時のイングランド王国との間に紛争を勃発することになる。
その後、幾度もアイルランドの血の紛争の歴史と称されるほどの内部紛争を繰り返すこととなる。
そして時は流れ、1921年12月、勢力を拡大したアイルランドの諸侯が中心となり、「アイルランド独立戦争」が勃発することになる。
長く続いた戦争に両国の国民や国の財源は疲弊し、その結果、イギリスとアイルランドとの間に休戦協定が樹立されることとなる。
その際の条件として、アイルランドの自治権(独立)を求める派閥勢力の根城であった首都
ダブリンとその周辺の土地26州をイギリス議会の名の下「アイルランド自由国(南アイルランド)」として認めることとなり、現在に至る。
この紛争の結果、32州あるアイルランドの内、保守派(=穏健派)が多く集う、北アイルランドの地・6州はイギリス(グレートブリテン王国)の領土として「北アイルランド」と称し、残りの南の部分が「アイルランド自由国(アイルランド共和国)」として称さることになり、現在に至っている。
小規模の紛争は今も尚、続いているとされる。